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キャンピングカー キャラバン紀行
その65 さきたま古墳探索 3日間(平成31年01月25日〜01月27日)
日程 |
月日 |
行き先 |
宿泊 |
走行距離 |
01日目 |
01月25日(金) |
・道の駅「はにゅう」 |
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道の駅「はにゅう」 |
満タン出発
発 88,050q
102.5q |
02日目 |
01月25日(土) |
・県立さきたま古墳公園 |
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県立さきたま古墳公園駐車場 |
13.7q |
03日目 |
01月27日(日) |
・前玉神社
・埼玉市立美術館
・ |
− |
自宅 |
115.5q
着 88,272q
給油(八千代01月28日)
27.4L(満)
3,461円(128円) |
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走行計 217q
発 88,050q
着 88,272q
G計 27.4L
燃費 7.92q/L
金計 3,461円 |
平成31年01月25日(金)
起床時室温17.9度。晴れ。
自宅→国道16号線→県道78号線→国道122号線→道の駅「はにゅう」
◇自宅
9:33 発
◇道の駅「はにゅう」(国道122号線)
埼玉県 羽生市大字上新郷7066
15:20 着
「羽生」とは、埴土のある土地、利用するところ」といった意味だそうです。(wikiより)
「埴土」とは、細土中に 50%以上の粘土を含む土壌。構造は緻密で水分や養分の吸収力は強いが,通気性は悪い。乾燥すると固結して砕けやすくなる。
耕作には困難で,作物に及ぼす影響もよくない。
「埴輪」とは、古墳時代に、墓の周囲に埋めた、埴(はに)で作った円筒や人形・動物などの像。
「埴」とは、きめの細かい、黄赤色の粘土。昔、かわら・陶器の原料
因みにイングランド民謡「埴生の宿(はにゅうのやど)」とは「土の上にむしろを敷いて寝るような、粗末な家」のこと。
原題は『ホーム・スイート・ホーム』で、「楽しき我が家」という訳題でも知られています。
・埴生の宿
「はにゅう」と聞くと、イングランド民謡「埴生の宿」、そして「ビルマの竪琴」を連想してしまいます。
直接の関係は無いのでしょうが、「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」。そして「「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」
事の顛末をともすると忘れてしまいそうになります。
忘れないため、wikiから粗筋を転載させていただきたく思います。粗筋だけでも落涙します。「泣いた赤鬼」と同じく、自分の琴線に触れます。
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1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化の一途をたどっていた。物資や弾薬、食料は不足し、連合軍の猛攻になす術が無かった。
そんな折、日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教え込んでいた。隊員達は歌うことによって隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていた。彼ら隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、ビルマ伝統の竪琴「サウン・ガウ」の演奏はお手の物。部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的だった。さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていた。
ある夜、小隊は宿営した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために『埴生の宿』を合唱しながら戦闘準備を整える。小隊が突撃しようとした刹那、敵が英語で『埴生の宿』を歌い始めた。両軍は戦わないまま相まみえ、小隊は敗戦の事実を知らされる。
降伏した小隊はムドン(英語版)の捕虜収容所に送られ、労働の日々を送る。しかし、山奥の「三角山」と呼ばれる地方では降伏を潔しとしない日本軍がいまだに戦闘を続けており、彼らの全滅は時間の問題だった。彼らを助けたい隊長はイギリス軍と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになる。しかし、彼はそのまま消息を絶ってしまった。
収容所の鉄条網の中、隊員たちは水島の安否を気遣っていた。そんな彼らの前に、水島によく似た上座仏教の僧が現れる。彼は、肩に青いインコを留らせていた。隊員は思わずその僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず、逃げるように歩み去る。
大体の事情を推察した隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受ける。そのインコは、例の僧が肩に乗せていたインコの弟に当たる鳥だった。隊員たちはインコに「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と日本語を覚えこませる。数日後、隊が森の中で合唱していると、涅槃仏の胎内から竪琴の音が聞こえてきた。それは、まぎれもなく水島が奏でる旋律だった。隊員達は我を忘れ、大仏の体内につながる鉄扉を開けようとするが、固く閉ざされた扉はついに開かない。
やがて小隊は3日後に日本へ帰国することが決まった。隊員達は、例の青年僧が水島ではないかという思いを捨てきれず、彼を引き連れて帰ろうと毎日合唱した。歌う小隊は収容所の名物となり、柵の外から合唱に聞き惚れる現地人も増えたが、青年僧は現れない。隊長は、日本語を覚えこませたインコを青年僧に渡してくれるように物売りの老婆に頼む。
出発前日、青年僧が皆の前に姿を現した。収容所の柵ごしに隊員達は『埴生の宿』を合唱する。ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせてかき鳴らす。彼はやはり水島上等兵だったのだ。隊員達は一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけた。しかし彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾く。日本人の多くが慣れ親しんだその歌詞に「今こそ別れめ!(=今こそ(ここで)別れよう!)いざ、さらば。」と詠う別れのセレモニーのメロディーに心打たれる隊員達を後に、水島は森の中へ去って行った。
翌日、帰国の途につく小隊のもとに、1羽のインコと封書が届く。そこには、水島が降伏への説得に向かってからの出来事が、克明に書き綴られていた。
水島は三角山に分け入り、立てこもる友軍を説得するも、結局その部隊は玉砕の道を選ぶ。戦闘に巻き込まれて傷ついた水島は崖から転げ落ち、通りかかった原住民に助けられる。ところが、実は彼らは人食い人種だった。彼らは水島を村に連れ帰り、太らせてから儀式の人身御供として捧げるべく、毎日ご馳走を食べさせる。
最初は村人の親切さに喜んでいた水島だったが、事情を悟って愕然とする。
やがて祭りの日がやってきた。盛大な焚火が熾され、縛られた水島は火炙りにされる。ところが、不意に強い風が起こり、村人が崇拝する精霊・ナッの祀られた木が激しくざわめきだす。「ナッ」のたたりを恐れ、慄く村人達。水島上等兵はとっさに竪琴を手に取り、精霊を鎮めるような曲を弾き始めた。やがて風も自然と収まり、村人は「精霊の怒りを鎮める水島の神通力」に感心する。そして生贄の儀式を中断し、水島に僧衣と、位の高い僧しか持つことができない腕輪を贈り、盛大に送り出してくれた。
ビルマ僧の姿でムドンを目指す水島が道々で目にするのは、無数の日本兵の死体だった。葬るものとておらず、無残に朽ち果て、蟻がたかり、蛆が涌く遺体の山。衝撃を受けた水島は、英霊を葬らずに自分だけ帰国することが申し訳なく、この地に留まろうと決心する。そして、水島は出家し、本物の僧侶となったのだった。
水島からの手紙は、祖国や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていた。
手紙に感涙を注ぐ隊員たちの上で、インコは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と叫ぶのだった。
印英軍:小説では、「グルカ兵」とあります
「グルカ兵」:19世紀中葉からネパールはイギリスと友好的な関係を持ち続け、インドにおけるイギリス軍に傭兵を提供してきたが、その傭兵は「グルカ 兵」と呼ばれ、勇猛さで知られる。
フォークランド紛争や湾岸戦争、イラク戦争、アフガニスタン紛争などへの派遣もある。 |
・モニュメント
・昭和橋
・西には、筑波山が霞んで見えます。
◇道の駅「はにゅう」車中泊
平成31年01月26日(土)
起床時室温10度。晴れ。
道の駅「はにゅう」→国道122号線→国道125号線→県道77号線→県立さきたま古墳公園
◇道の駅「はにゅう」
9:34 発
◇県立さきたま古墳公園(県道77号線)
・県立さきたま古墳公園駐車場
10:13 着
・富士山がくっきりと見えます。
秩父の山々には、白い雪が被っています。
・古墳案内板
◇県立さきたま史跡の博物館
入場料:200/人
・展示室
・国宝金錯銘鉄剣(こくほうきんさくめいてっけん)
鉄の酸化を防ぐための、窒素ガスを封入したケースの中に展示されていました。
窒素ガスの圧力計は、260aq(水柱表示?)を指していました。
・銘文
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剣身の両面に計115文字の銘文が金象嵌で記されています。
次のような事が記載されているようです。
辛亥の年(471年)に記します。(わたくし)ヲワケの先祖は、代々杖刀人首(親衛隊長)を努めてきました。
わたくしはワカタケル大王(雄略天皇?)に仕え、天下を治めるのを助けました。
そこでこのすばらしい剣にこれまでの功績を刻んで記念とします。
詳細
(表) 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比?其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏) 其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
解釈すると、
(表)「辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
(裏)其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(「ワ、ワク、カク」+「カタ」+「ケ、キ、シ」+「ル、ロ」)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」 |
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表面 |
裏面 |
・古代中国の銘剣
古代中国の銘剣といえば「干将、莫耶」が有名です。下図右から4,5番目の剣です。(復元モデルのようです。)
(webより)
・伊佐須美神社
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かつては四道将軍や大毘古命(第8代孝元天皇の皇子)を記紀伝承の架空人物とする学者が多かったのですが、
昭和43年(1968)に埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に大毘古命(意富比?)と記されていたことで実在が確認されました。
その37 平成28年04月13日(水)
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・関東の古墳
・愛宕山古墳
・鉄砲塚古墳
・二子山古墳
・将軍山古墳
・石室に使われた「房州石」
・稲荷山古墳
ここから、国宝金錯銘鉄剣(こくほうきんさくめいてっけん)が発掘されました。
・前方部が失われる前の稲荷山古墳
・前部は、昭和12年に、沼地埋め立て工事の土採り場となって消滅したということです。
現在のものは、復元されたもの。
・稲荷山古墳
・墳頂の礫槨
実物は埋め戻され、その写真が上面に設置されています。
・粘土槨
既に盗掘され、殆ど残っていなかったということです。
・「造出し」
・丸墓山古墳
◇車中泊
平成31年01月26日(日)
起床時室温6度。晴れ。
県立さきたま古墳公園駐車場→前玉神社→県道7号線→県道76号線→県道39号線→埼玉市立美術館→国道254号線→国道16号線→自宅
◇県立さきたま古墳公園駐車場
昨夜は風が強いでした。冷えました。
8:05 発
◇前玉神社(県道7号線)
埼玉県 行田市埼玉 5450
御祭神:前玉彦命、前玉比売神
境内社:浅間神社、明治神社、天神社、稲荷社
御祭神前玉彦命は、オオクニヌシの子孫の速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤジヌミ神)です。
オオクニヌシノミコトを祖に持つ出雲系の神です。
・宝珠
宝珠が大きく感じられます。
・高さ8.7m、周囲92mほどの浅間塚古墳に鎮座している神社です。
・階段の登り口の両側に、「万葉灯籠(まんようとうろう)」2基。高さ180cm。
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webより
元禄10年(1697年)10月15日、当神社の氏子たちが所願成就を記念して奉納したものです。
この地を詠んだ万葉集の歌、「小崎沼」と「埼玉の津」が刻まれています。
右側「埼玉の津」の碑 『佐吉多万能 津爾乎流布禰乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曽禰』
(埼玉(さきたま)の 津(つ)に居(を)る船の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言(こと)な絶えそね)
左側「小埼沼」の碑 『前玉之 小埼乃沼爾 鴨曽翼霧 己尾爾
零置流霜乎 掃等爾有欺』 (埼玉の 小埼の沼に 鴨そ翼(はね)霧(き)る 己(おの)が尾に 降りおける霜(しも)を 払(はら)ふとにあらし)
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・浅間神社
御祭神:木花開耶媛命(コノハナノサクヤヒメ)
・猫ちゃん
前玉神社のアイドルです。
・明治神社社殿
明治期に埼玉地区の神社を合祀した神社です。
・鬱蒼とした社叢を抜けると、鉄砲山古墳に出ました。
・プラタナス
プラタナスの巨木がありました。
プラタナス自体はヨーロッパのものですから、公園として整備されたときに植えられたものでしょう。
アテネのアカデミーでは、この木陰でプラトンやアリストテレスが学を
講じたということです。
このことから、 民主主義は最初プラタナスの木陰で論説されたとされています。
そこでヨーロッパでは 民主主義を象徴する木とされているそうです。
・プラタナスの実
初めて見ました。
・中には、綿毛状の種が詰まっています。
◇埼玉市立美術館(県道39号線)
9:40 着 〜 11:35 発
・初雁公園野球場駐車場
・埼玉市立美術館
洋画家 相原求一郎展をやっていました。
多恵子が見に行きました。
代表作:「雪の道ほのかに遠く」
・三芳野神社
埼玉県川越市郭町2丁目25?11
御祭神:素戔嗚尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(いなだひめのみこと)
配祀:菅原道真命 誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)
「とおりゃんせ」発祥の神社とされています。
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wikiより
童歌「とおりゃんせ」は当社の参道が舞台といわれる。
当社は川越城築城により天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれた。
城内にあることから一般の参詣ができなくなったのだが、信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められた。
しかし、この天神さまにお参りするには川越城の南大手門より入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細道を通ってお参りしなければならなかった。
また、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられた。
そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と川越城内の子女の間で唄われるようになり、それが城下に流れ、武士や僧侶、町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全国へ広まって行ったものである。
なお、参道は江戸時代より若干変化している。 |
・社殿は、修復工事中でした。
・工事前の社殿の様子(webより)
・川越城本丸御殿
・霧吹きの井戸
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案内板より
川越城の敷地内には、常に蓋をされている、苔の蒸した大きな井戸がありました。
その井戸の蓋が外されるのは、戦中に城がピンチに陥ったとき。
ひとたびその蓋を取れば、中から霧がもうもうと吹き出し、辺り一面に立ち込めて、城を覆い隠してしまうのです。
あまりの濃霧に城が見えなくなり、敵は仕方なく撤退していったとか。
このことから、川越城は「霧隠城(きりがくれじょう)」とも呼ばれていたと言われています。 |
◇国道16号線
・上江橋(かみごうはし)
入間川、荒川を跨ぐ、長い橋でした。
◇自宅へ
スーパーY(買い物)着 16:20
自宅着 17:30着
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